1996年4月に沖縄・米軍普天間基地の返還が日米間で合意してから、はや25年。
2019年に2月に行われた名護市辺野古沖の米軍新基地建設に必要な埋め立ての賛否を問う県民投票でも、およそ70%が「埋め立て反対」派がしめるなど、県民の反対の意思は固い。
しかしなぜ、これほど反対を支持する県民の意思は固いのか。
そこには、明治維新以後、沖縄が辿ってきた特殊事情がある。その始まりが、「琉球処分」である。
「15世紀に成立して以来、独立を保ってきた沖縄王国は、1871年に行われた明治政府による廃藩置県によって鹿児島県の直轄下に置かれ、1879年には明治政府が首里城に乗り込み『沖縄県設置』を宣言。尚泰王は首里城を明け渡し沖縄を去り、ここに琉球王国は消滅。強制的とも言える幕引きには疑問が残るところです」(テレビ局記者)
さらに1945年、沖縄は本土決戦の捨て石にされ、「唯一の地上戦」を経験。
民間人を含む約12万人もの沖縄出身者の命が失われた。
しかも終戦後、約30万人の県民がアメリカの収容所に入れられ、その間米軍に広大な土地を軍用地として接収されてしまった事実は重い。
「その後も、世界情勢が緊迫の度合いを深めると米軍は沖縄を太平洋の重要拠点として、基地機能をより拡大。
強引な土地使用の条件の改善を求めて島ぐるみの闘争を行い、1958年には米軍から譲歩を勝ち取っています」(前出・テレビ局記者)
その後も米兵が引き起こした交通事故をきっかけに、1970年「コザ暴動」が勃発。
こうした闘争が復帰運動にも繋がり1972年5月15日、沖縄はアメリカ支配から復帰を果たす。
「しかし沖縄施政権返還の時は、当時の佐藤栄作首相とニクソン大統領との間で『核抜き本土並み』が条件としてうたわれていました。
しかし、裏では『有事の際の核再配備』の密約が交わされていたことがのちに明らかになるなど問題は山積み。
さらに1995年、12歳の小学生児童が米兵に拉致され暴行を受ける事件が起き、県民の怒りは爆発。
米軍に対する抗議行動が激化して、全海兵隊の沖縄撤退、日米地位協定改定の検討まで追い込まれていきました」(前出・テレビ局記者)
そうした経緯を踏まえ、翌年日米は問題の打開策で合意。
当時の橋本龍太郎首相から、沖縄県・大田昌秀知事への電話で「普天間返還」が伝えられた。
しかし、普天間基地は返還するものの新たな移設先を県内に求める、新たな犠牲を沖縄県民に強いる結果となった。
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