今月12日で日米両政府が米軍普天間飛行場の返還に合意してから、25年。しかし、名護市辺野古への移設を巡る国と県の対立により、実現の見通しは立っていない。
ところがここにきて、中国の強引な海洋進出への警戒感から県民感情にも変化が見られる。
このシリーズでは、普天間返還合意から25年。様々な問題点に改めて触れてみたい。
「普天間基地問題」迷走の発端
「世界一危険」と呼ばれる普天間飛行場の返還に日米両政府が合意に至ったのは、平成8年4月12日。その前年に沖縄県北部で12歳の少女が米兵に乱暴される事件が起き、県内の反基地感情が頂点に達したことが引き金となった。
その事態を重くみた橋本龍太郎首相は、モンデール駐日大使と交渉を重ね、移設を条件に普天間飛行場を「5年から7年以内に全面返還」すると合意にこぎつける。
しかし、移設は一向に進まず。地元自治体との協議が難航して、返還時期が大きくずれ込んだ上に、平成21年に発足した民主党の鳩山由紀夫政権が、合意に至っていた辺野古への移設計画を白紙に戻すような動きをみせ、迷走を重ねる結果となった。
こうした経緯を受けて、弄ばれた格好となった県民の不満は一気に高まる。平成24年に政権に復帰した自民党は移設計画を再び軌道に乗せようとするも、平成26年に翁長雄志が知事に就任。
反対の姿勢を貫き、国との深刻な対立は玉城デニー知事となっても変わることはなかった。
「辺野古移設問題」の解決の糸口
しかしこの25年間で沖縄を取り巻く状況も大きく変化を遂げつつある。北朝鮮は、なんどもミサイル発射を繰り返し、尖閣列島では昨年来、中国公船による挑発行動もエスカレートする一方。平成31年に行われた「辺野古移設」の賛否を問う県民投票では反対が70%を占めたが、昨年行われた県議選では”辺野古容認”を掲げる自民党が過半数に迫る勢いを見せている。そこには革新色を強める「オール沖縄」の保守派離れも見られ、玉城知事の支持基盤もほころびを見せはじめている。
そんな中、平成30年。国側は辺野古の埋め立て工事に着手するも、現場海域で軟弱地盤が見つかり、設計変更を余儀なくされた。このため、改良工事を含む総工費は9300億円に膨らみ、完成時期も大きくずれ込むこととなった。
しかし、国の「辺野古への移設」の方針は変わらない。今年3月に東京で行われた「2ブラス2」(日米の外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会)でもその方針は確認され、「可能な限り、早期に建設を完了する」とするが、果たして「普天間の返還」そして、「辺野古への移設」は実現するのか。次回へ続く⇒
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