軍用地地主会『土地連』元事務局長が語る~軍用地の光と影~

『土地連』元事務局長

沖縄県下の軍用地主の意見を取りまとめ、借地料などについて国と折衝する正式の窓口となるのが、土地連です。
しかしネットなどで検索をかけても、中々情報が集まりません。
土地連とは、どんな組織なのか。そこで「軍用地に詳しい人に聞く」シリーズ!!

今回は、ノンフィクション作家・佐野眞一さんのルポルタージュ「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 下」(集英社文庫)の「”沖縄の帝王”軍用地主」には、土地連の元事務局長だった砂川直義氏にインタビューを試みている一節があるので、抜粋の上ご紹介しましょう。

元事務局長・砂川直義氏が語る「土地連」戦後の躍進

砂川氏は、土地連が結成された1953年の4年後から、この仕事に参加。地主と国の間に立って半世紀近く調整役を務めてきた軍用地問題のエキスパートです。

サンフランシスコ講和条約締結後、米軍に対する地料の支払い要求から損害の補償要求まで取りまとめるために発足したのが土地連です。
ところで、この当時米軍が提示した軍用地の地料は一坪あたり一体いくらだったのか、ご存知ですか。なんと当時は、コーラ一本分の値段しか払われていませんでした。

その後も米軍は布令や布告を次々に出して、土地を強制的に収用していきます。
宜野湾の伊佐浜、那覇の小禄(おろく)、具志(ぐし)、今や新都心として名をはせる天久(あめく)、そして伊江島なども講和条約締結後に新規接収されています。

しかし米軍の提示した軍用地料の値段では折り合いがつかず、地主たちの怒りは爆発。
地主たちが毎年のように値上げの控訴を起こして、米軍は「一括支払い」の方針を打ち出します。

しかしその中身は、借地料を地価の6%とみて、16年分一括払いする。

つまり「6%×16年=96%」
これが「地価に相当する金額だ」と主張する米軍。

これに対して真っ向から反対したのが、”4原則貫徹”のスローガンを掲げた1956年の「島ぐるみ闘争」です。

「島ぐるみ闘争」で掲げられた”4原則貫徹”のスローガン

①米軍用地料一括支払い反対
②土地の適正補償
③米軍による損害適正補償の支払い
④ 新たな土地収用の反対

1953年、米軍は「一括支払い」の方針を諦め、毎年契約を更新する方針に転換。
個々の地主と当時の琉球政府が契約して、その土地をアメリカに転貸する契約方式に落ち着きました。

やがて1972年に沖縄は本土復帰。しかし、借地料は地価の6%のまま。
しかも、地価の評価自体が米軍が接収した当時の地目のままと安く、本土復帰に際して見直しを要求しています。

その時、要求した額は、なんと「6倍」。
さすがに防衛施設庁も、一気に「6倍」に認められない。
そこで政治折衝に持ち込み、満額回答を勝ち取りました。

実はこの満額回答には、あるカラクリがありました。
当時、沖縄の本土復帰は、国民最大の関心事。しかも本土復帰ができるかどうかは、基地の移管が米軍からスムーズに行くかどうかにかかっていました。
そのおかげで、この要求を通すことができました。土地連の鮮やかな勝利というわけです。

土地連の一番大きな仕事は、防衛施設庁との間で行われる軍用地料の予算折衝です。
毎年、概算要求の決まる8月に上京。来年度の予算が現行地料の何パーセントアップになるのか、防衛施設庁に掛け合います。

ちなみに復帰前の米軍の地料は、総額約30億円。
それが復帰後、一気に6倍の188億円に跳ね上がり、さらに現在(2005〜2008年当時)には、約800億円と急成長を遂げています。

竹野一郎氏「沖縄の帝王」と呼ばれる軍用地主

嘉手納弾薬庫

沖縄土地住宅株式会社代表取締役会長竹野一郎氏について
沖縄海邦銀行、沖縄製糖の大株主であり代表取締役を共通としていたこともあるなど密接な関係をもつ。在日米軍嘉手納基地の土地を多く所有し、防衛施設庁から支払われる地代が事業収入の多くを占める、いわゆる「軍用地主」である。
嘉手納弾薬庫地区の土地約115万坪(約380ヘクタール)を所有し同弾薬庫地区内の私有地の3割近くを占める[2]。嘉手納基地の土地所有は、沖縄製糖株式会社、戦前の台南製糖株式会社に由来している。
2006年に発表された法人申告所得では沖縄県全体7位の21億3,499万1,000円となっている。不動産業の他、県下有力企業に投資を行い、2000年10月には経営再建中であった國場組から地元で名門コースを運営する那覇カントリー(現:那覇ゴルフ倶楽部) を売却されることが明らかとなり[3]、翌年80億円で取得するなど、県経済界において大きな影響力を持っている。ウィキペディア(Wikipedia)より引用

軍用地の地主になり土地連に入ると、各市町村ごとの軍用地主会に所属。個々の地主が地主会の会長に委任して一括契約を結びます。
つまり土地連は、各市町村の地主会の連合組織というわけです。ちなみに、地料の1000分の2(0.2%)を会費として徴収されます。

その一方で、土地連に加入しない軍用地主もいます。当時、沖縄で最大の軍用地主と呼ばれた竹野一郎氏もその一人です。
竹野さんは、嘉手納飛行場の北側に位置する嘉手納弾薬庫地区に膨大な軍用地を所有。年間地料は20億円とも言われています。

竹野氏の自宅は、那覇市の国際通りまで歩いて五分という一等地にあります。
周囲は高い鉄の扉と鉄条網に囲まれ、庭一面に芝生が敷きつめられた広壮な邸宅は、ミニゴルフ場のクラブハウスのようだと佐野さんは「”沖縄の帝王”軍用地主」の中で紹介しています。

高額所得者ランキングの常連

また竹野氏は高額所得者ランキングの常連。

2003年の沖縄県内法人申告所得ランキングによると、竹野氏が代表取締役を務める沖縄土地住宅は沖縄電力、琉球銀行といった沖縄を代表する大企業に伍して第6位(前年は第4位)にランクインしています。
個人の納税額でも2000年5位に入るなど常に上位に入っています。

竹野氏の収入源になっている嘉手納飛行場弾薬庫地区の軍用地は、嘉手納基地全体の約19%に相当する150万坪にものぼる広大な土地。
元々その土地は父・竹野寛才が社長を務める沖縄製糖のサトウキビ畑でした。

沖縄製糖の前身は、1913年に設立された台南製糖です。
父の寛才が支配人を務めていましたが、同社社長でサントリー創業者の鳥井信治郎が製糖業から身を引いたため、1952年に社長に就任しています。

それ以来、父祖伝来の土地を死守して、そこから上がる莫大な軍用地料には一切手をつけず、新規事業にも手を出さない。
どうやらそれが竹野家の家訓ではないかと、ノンフィクションライターの佐野さんは記しています。

嘉手納基地

軍用地問題が抱える”光と影”

竹野氏の軍用地がある嘉手納基地は、嘉手納町、北谷町、沖縄市の一市二町にまたがり、約600万坪の広さを誇ります。都内でいうなら、品川区の面積とほぼ匹敵するほどの広さ。
その内、約39万坪は嘉手納住民30世帯の土地だったのですが、その三分の一は様々な理由で元地権者の手を離れています。

これには理由があります。芥川賞作家の又吉栄喜には、軍用地主を主人公にした小説「鯨岩」という小説があり、軍用地を巡る様々なエピソードが盛り込まれています。
軍用地の金を狙って近づくホステスや、高級外車を売りつけようとするブローカーたちが暗躍。
「鯨岩」の主人公は、その土地に深い思い入れがあるため、身をもち崩すまでには至りませんが、嘉手納基地の元地権者たちは多かれ少なかれこうしたトラブルを抱え、軍用地を手放さなければなりませんでした。

鯨岩」には、黙認耕作地として使っていたサトウキビ畑が、一夜にして黒焦げになる不審な事件が登場します。
当時は軍用地を巡って、こうしたトラブルも掃いて捨てるほどあったようです。
竹野氏もこうしたトラブルを避けるために父の家訓を守って、ひっそりと暮らしているのかもしれません。

「”沖縄の帝王”軍用地主」には、佐野さんが嘉手納基地を取材した際、「あの風景を一度見ておいたほうがいいですよ」と言われ、嘉手納基地に隣接する北谷町謝刈(しゃーがる)を訪れる印象的な場面が登場します。

今にも崩れそうな零細な住宅が斜面びっしりに立ち並ぶ謝刈の風景と、嘉手納飛行場のコントラストこそ、半世紀以上居座り続けた米軍基地と基地から追いやられた沖縄住民の姿をそのまま鼻先に突きつけられたようで、思わず息をのむと話しています。

こうした現実も、軍用地問題が抱える”光と影”なのかもしれない。

(「沖縄 誰も書かれたくなかった戦後史 下」(佐野眞一著)の「”沖縄の帝王”軍用地主」より引用)

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