嘉手納基地の門前町「コザ」にドルの雨が降る!!鳴り響いた「沖縄ロック」よ、再び

沖縄ロックを再び

太平洋戦争末期、沖縄中南部は米軍の艦砲射撃によって焦土と化しました。
戦後、その焦土の上を、那覇から伸びた一本道。軍用道路1号線を北へ向かってまっすぐ走ると、西太平洋最大のアメリカ航空基地・嘉手納基地が広がっています。

この嘉手納基地の南に広がる基地の街が、「コザ」と呼ばれていました。
復帰後も街の目抜き通りであるゲイト通りに軒を並べた米兵相手の店の看板は、すべて横文字。

この基地の街から、ベトナム戦争に多くの米兵たちが旅立っていきました。

コザの前身は、戦場となった沖縄中南部の住民を収容していたキャンプ。
コザはその後、基地を目指して人々が群がり出来上がった街でもあります。

しかし、さらに時代を遡ると、別の風景が浮かび上がって来ます。
この周辺は、戦前まで「北谷田ん圃(たんぼ)」と言われ、沖縄本島の三大稲作地帯のひとつに数えられていたことを覚えている人は、もはやわずかしかいません。

米軍への怒りが爆発した「コザ事件」と「祖国復帰運動」

コザ暴動

「コザという地名は、元々越來村(ごえんそん)と呼ばれる地名でしたが、沖縄戦で上陸した米軍が同村字胡屋(ごや)に野戦病院・物資集積所を建設。
間違って『キャンプコザ』と呼んだことから名付けられたといった説を始め、『コザ』という名前の由来は諸説あります。

戦前は農村地帯でしたが、戦後は全面積の70%が嘉手納飛行場をはじめ米軍施設が占める基地の街になりました」(地方紙記者)

そんなコザの街を一躍有名にしたのが、1970年12月に起きた「コザ事件」です。

深夜、米兵が運転する乗用車が道路を横断する通行人を引っ掛けてケガを負わせたことから端を発して、MPカーや外人所有の黄色ナンバーが次々に放火され、炎上車は80台以上。

基地内の米人学校や周辺の基地関連施設も焼き討ちに会い、その騒ぎは7時間にも及んでいます。

しかしこれは、単なる暴動などではありません。
当時の沖縄情勢は、緊迫していました。理不尽な米軍の行いに、沖縄の人たちの我慢も限界に近づきつつありました。

「糸満町の金城トヨさんが、白線で仕切られた歩道内で酒酔い運転の米兵に轢き殺された『糸満事件』では、事実も証拠も歴然としているのに無罪判決が下されました。

この事件は、米国人に対する裁判権を持たない沖縄の現状を改めて突きつけられる結果となりました。
さらに本土でも連日報道されていた『知花(ちばな)弾薬庫の毒ガス撤去』も遅々として進まず、米軍に対する住民の怒りはまさに頂点に達していました」(前出・地方紙記者)

戦場となった沖縄は戦後軍政が敷かれ、本土とはまったく別世界。
基地を確保するために強制土地収容が実施され、度重なる米兵の犯罪に対して裁判権もなく、沖縄の人々は、生命や生活を直接おびやかされる状況に置かれていたのです。

さらに「コザ事件」の背景には、「沖縄返還」への複雑な思いも見え隠れしています。

「米軍による占領行政と軍事基地化に反対して、沖縄では戦後まもなく祖国復帰運動が始まります。
しかし、昭和25年に公にされた『対日講和七原則』では、沖縄を日本から分離する取り決めがなされており、県民は動揺。それを引き金に翌年、『日本復帰促進期成会』が結成され、復帰運動が本格化します。

ところが、県民の意志を無視して『サンフランシスコ条約』が発行されると益々、復帰運動は激しさを増します。昭和40年代を迎え、復帰が現実のものとなるも、沖縄はアメリカの前前基地のまま。こうしたことへの失望感の最中で『コザ事件』は起きてしまいました」(前出・地方紙記者)

”ドルの雨が降る”コザを支えた「沖縄ロック」

コザの街の中心部中の町社交街

嘉手納基地の門前町として発達したコザ。1974年には隣村の美里村(みさとそん)と合併して沖縄市となりましたが、当時のコザは活気に満ちていました。
ベトナム戦争を知るコザの人たちに当時のコザについて、話を伺いました。

「戦地へ向かう不安を紛らわそうと若い米兵は強い刺激を求め、市内に約600軒並ぶバーやライブハウス、キャバレーに繰り出しました。お店は、大きなバケツからドルがはみ出すほど儲かり、一ヶ月で家が建つほどの”特需”でした。

そんなライブハウスから実力派のロックバンド、紫やコンディション・グリーン、マリー・ウィズ・メデューサといった人気バンドが生まれ本土デビューも飾り、”沖縄ロック”が当時の日本のロックシーンを席巻していきました」(テレビ局関係者)

当時の”コザっ子”は、那覇に対するライバル心が、とても強かったという。

「コザっ子に言わせると『那覇は東京のことばっかり見ている。リトル東京になろうとしている。だけどコザは違う。コザはコザ。いろんなものがあって、ミュージシャンから芸人までいろんな人がいる』。とにかくコザは特別だっていう意識が強かったんです」(前出・テレビ局関係者)

こうしたコザ独自のカルチャーは1980年代にも受け継がれ、喜納昌吉&チャンプルーズ、りんけんバンド、ディアマンテス、ネーネーズといったグループがコザからやがて本土に旅立ち、”沖縄ポップカルチャー”が瞬く間に日本中に花開いていきました。

しかしその反面、基地の街に息づいたロックは、「基地反対」を唱える当時の「日本復帰運動」とは対極にあり、微妙な立場に立たされていました。

「儲かりはしたが住民とのトラブルが絶えず、米兵相手の商売は軽蔑され、『バンドマンは犬、猫以下』と言われることもあった」
そう語るのは、当時を知るコザロックの創始者のひとり、喜屋武幸雄さん。

夢よ、もう一度「ミュージックタウン」への、それぞれの思い

コザミュージックタウン

そんな繁栄も今は夢幻の如く。バブル崩壊に伴い、コザの商店街も寂れた。
しかし日本各地に”村おこし”ブームが起きると、沖縄市はかつてドルの雨を降らせた”音楽”で地域の活性化を目指します。

「沖縄市は、過重な基地負担の見返りに9割の事業費を国が負担する『沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業』を利用して、中心地再開発を”音楽によるまちづくり”の名目で推進。
約30億円を投入して2007年に『ミュージックタウン』を完成させました」(地方紙記者)

地上9階の「ミュージックタウン(MT)」には、最大1,100人も収容できる音市場を始め、音楽制作スタジオ、ストリートライブといった音楽関連施設の他にも、ラジオ放送局「FMオキラジ」、エイサー会館。
さらに飲食やカラオケ店など様々なテナントが集まるアミューズメント施設。観光客だけではなく、地元の人たちにも愛されているという。

しかし、歩けば音楽が聞こえる。そんなジャズの聖地・ニューオーリンズのような街を夢見ていた人たちからは、批判の声も出ています。

「建物への店舗誘致の際、地権者の意向が強く反映され、結局は居酒屋やカラオケ店などが入居。周辺の商業地への波及効果も期待できていません。古き良きコザの街を知るファンからは『音楽を再開発のダシに使われただけ』と揶揄する声もあります」(前出・地方紙記者)

やはりベトナム戦争最中の”ドルの雨が降る”ほどのあの時代の熱狂は、もはや帰ってこないと考える方が健全なのかもしれない。

(参考文献:「炎上」伊佐千尋著 「オキナワなんでも辞典」池澤夏樹編 「米軍基地の現場から」高文研)

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